基本情報
- 城名:小牧山城
- 別名:火車輪城(かしゃりんじょう)
- 城地種類:平山城
- 主な城主:織田・徳川
- 住所:愛知県小牧市
- 交通:名古屋鉄道小牧線「小牧」駅からバスで10分
マップ
小牧山城
小牧山城は尾張の国で生まれた織田信長が作った城で、今でも信長が作った立派な石垣が残されています。🥸
信長の死後、に徳川家康が小牧・長久手の戦いの為に堀や土塁をつくりました。😠
小牧山城では、信長と家康それぞれのお城の姿を見ることができます。🏃🏻
春風亭昇太(しゅんぷうていしょうた)のおススメ散策コース
城好きで有名な笑点の司会者、春風亭昇太さんがおススメの小牧山公園の散策コースを2つご紹介します。🚶
れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)
小牧山の史跡公園南口から入るとすぐに見えてくるのが「れきしるこまき」です。🕋
「れきしるこまき」は史跡情報館となっており、外観のシンプルさとは裏腹にプロジェクトマッピングや最新の技術で楽しませてくれる資料館になってます。
「れきしるこまき」は、絶対に立ち寄った方が良い資料館です。
しかも大人料金で100円は破格の安さです。
開館時間:9:00~17:00 休館日:第3木曜日・年末年始
中はほとんど写真撮影📷ができないので、良さを写真で見せれないのが残念です。
小牧・長久手の戦い
小牧山城といえば、小牧・長久手の戦いで、徳川家康が戦いの拠点として入った城です。
小牧・長久手の戦いってどんな戦い?なんで起こったの?
おうぅ! わしが教えよう。
わしが信長様が作った小牧山城に、手を加えて頑丈な城にしたのじゃ。
あなたは、徳川家康さん。
そんな小牧山城を紹介すると共に、小牧・長久手の戦いも説明するぞ。
まず時は遡ること、1582年6月2日。
本能寺の変で織田信長と織田信忠(信長の長男)が明智光秀に討たれて亡くなりました。😇
その後の清須会議にて、後継者は三法師(信忠の子供)と決まり、また、明智討伐を果たした羽柴秀吉が絶大な権力と財力を握ることになります。💪
※清須会議の詳細は、清洲城のブログにてご紹介。
これを不服とした柴田勝家と織田信孝(信長の三男)が手を組み戦ったのが賤ケ岳の戦いである。
小牧・長久手の戦いちゃうんかい。Σ(・ω・ノ)ノ!
焦るでない。ここからじゃ
賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、羽柴秀吉は柴田勝家と織田信孝(信長の三男)に勝利し、ますます権力を増します。🦾
そこに「待った」をかけたのが、織田信雄(信長の次男)と徳川家康です。✋
おっくるか。小牧長久手の戦いが….
織田信雄(おだのぶかつ)は、織田家の許可なく、賤ケ岳の戦いで得た柴田勝家と織田信孝の領土を勝手に分配したり、織田家の居城を安土城から大阪城に移すなど、身勝手に決めていく羽柴秀吉を見て、織田家当主はお飾りであり、利用されていると気づきます。😲
まだぁー!?
そこで織田信雄は徳川家康に援助を頼み、羽柴秀吉と決戦することになりました。この決戦こそが小牧・長久手の戦いです。😁
いよいよ。小牧・長久手の戦いだね。
でも、なんで家康さんは織田信雄に見方したの?
勝てる見込みはあったの?
勝てる見込みはなかった。
だが、負けぬ戦をすることが大事なのじゃ。
徳川家康は、羽柴秀吉に勝利することは難しいと感じてました。🤥
しかし、周囲の豪族が好機とばかりに領土を広げる動きを見せる今なら、羽柴秀吉から好条件の和睦交渉を得られるのではと睨み、また大義名分を得たとして信雄に加勢したと考えます。😤
また羽柴秀吉に、徳川家康がいる限り、羽柴秀吉に天下は取れぬ事を知らしめる為でもある。👻
~家康の天下を取る 大坂にあらずして関ケ原にあり 関ケ原にあらず 小牧にあり~
これは、江戸時代の歴史書「日本外史」に記載されている一文です。📕
徳川家康が天下を取れたのは、大阪夏の陣(冬の陣)もなく、関ヶ原の戦いでもなく、この小牧・長久手の戦いにあったと、後世の歴史書に記載されています。📙
それほど、小牧・長久手の戦いが重要だったとのことでしょう。🤔
そんな小牧・長久手の戦いは、犬山城の紹介にて記載しております。(現在作成中)
結局、やらんのかーーい ( `ー´)ノ
日本100名城 スタンプ
日本100名城スタンプは、天守閣にある小牧市歴史館の入り口すぐにスタンプ台があります。🛎
開場時間:9:00~16:30(休館日:第三木曜日、年末年始)
入場料:100円
感想
小牧山城の天守閣で、10km離れた犬山城を探してたら、ガイドの人が話しかけてくれた。👩✈️
親切にも小牧山城のことを細かく説明してもらいました。👍
普段なら「話長いのかなぁー?」と心配しちゃうんだけど、話が上手くめちゃ面白かった。🐤
ガイドの人を見つけたら、解説聞くのもありです。急ぎの方はなしで…w