基本情報
- 城名:岡山城(おかやまじょう)
- 別名:烏城(うじょう)
- 城地種類:平山城
- 主な城主:宇喜多秀家、小早川秀秋
- 住所:岡山県岡山市
- 交通:JR山陽本線「岡山」駅 徒歩25分

マップ

洲本城
岡山城は、その形や色から「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。なぜなら、城の壁が黒く塗られていて、まるでカラスのように見えるからです。


メジロ城はないの?
残念ながらメジロ城はありませんが、鳥の付く城は他にも白鷺城(しらさぎじょう)や鶴ヶ城(つるがじょう)などあります。


宇喜多秀家
岡山城の城主は宇喜多秀家(うきたひでいえ)という人でした。彼は、織田信長や豊臣秀吉という有名な武将たちに仕えました。
宇喜多秀家は、備中高松城の戦いで水攻めをしたり、その後の毛利軍との戦いで勇敢に戦いました。


関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は、石田三成(西軍)の副大将として戦いました。彼は徳川家康(東軍)の福島正則と戦いましたが、途中で小早川秀秋が徳川家康の方に裏切ったため、石田三成の仲間たちは負けてしまいました。その後、宇喜多秀家は逃げて薩摩国(現在の鹿児島県)まで生き延びました。


奇(く)しくも関ヶ原の戦いの後、裏切った小早川秀秋(こばやかわひであき)が岡山城の城主となります。


小早川秀秋
小早川秀秋は、裏切り者で弱々しいイメージがありますが、戦場での戦略的な判断力と機動力に優れていました。また、主君である徳川家康に対して強い忠義心を持ち、その信頼を得ていました。


関ヶ原の戦いでは秀秋の陣取りを見ても、途中から裏切りを決めたのではなく、最初から徳川軍に加勢するつもりで機を伺っていたと言われてます。
戦国時代はたくさんの争いがある時代で、武将たちは生き残るために色々な判断をしなければなりませんでした。


秀秋は、時には自らの立場を見直し、東軍に寝返るなど、柔軟な対応を見せました。これにより、戦国時代の動乱の中でも生き残ることができたのだと思います。


感想
岡山城の隣は、日本三名園の一つ後楽園(こうらくえん)があり、合わせて観光できるのも良いです。
大きな川を挟み岡山城を見上げることができ、庭園と合わせて見る岡山城も格別でした。
