基本情報
- 城名:郡上八幡城
- 別名:積翠城(せきすいじょう)
- 城地種類:山城
- 主な城主:遠藤氏、稲葉氏
- 住所:岐阜県郡上市
- 交通:長良川鉄道「郡上八幡」駅から徒歩で15分
マップ
郡上八幡城
1559年に遠藤盛数が「赤谷山城の戦い」でこの場所に陣を構えたことが郡上八幡城の創始となります。🏯
その後、天守閣は取り壊されましたが、1933年に再建されます。この郡上八幡城は日本最古の木造再建築の城です。🪵
入口(裏道)
天守閣近くに駐車場があり、郡上八幡城天守閣までは車で登れます。🚙
歩いて登る方は、神農薬師の右側に階段があり、そこから登ると近道とです。登山のように山を登っていく感じの道となってます。🧗♂️
山内一豊と妻の像
郡上八幡城には山内一豊とその妻(千代)の銅像があります。この郡上八幡城「山内一豊が城主だった」というわけではなく、妻の千代が郡上八幡城の創始者である遠藤盛数の娘ということで、ここに銅像が建てられてます。👩🏻❤️👨🏻
この山内一豊と千代の話は内助の功として有名で、2006年NHK大河ドラマの功名が辻で放送されました。📺
「家庭において、夫の働きを支える妻の功績」のことで、山内一豊の出世は、裏で支えた千代の功績が大きいといった話となります。💪💪
天守閣までの近道
なるほど。すごいね
でも山内一豊をよく知らないんだけど。そんなに出世したの?
山内一豊は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の武将に仕えており、最終的には土佐一国の領主になるまで出世しました。👏
今回はこの山内一豊の話をします。😉
南西帯曲輪
内助の功として有名な話の一つは、出世の馬揃えです。🐴🐴🐴
出世の馬揃え?
当時の武士は、名馬を手に入れ戦場で活躍するのが出世の道でした。しかし、馬は高価であり、それが名馬となると、とても手が出たものではありません。😩
一つ石垣を登った大手門前の前(なんのこっちゃ)
山内一豊は1匹の名馬🐎に目を奪われてしましましたが、日ごろから手柄を得るために身の丈に合わない多くの家臣を抱えており山内一豊自身も貧乏な暮らしをしてました。💸💸💸
その為名馬を買うのを諦めるしかありません。😫
名馬は高いから買えないねぇー。
魚の形をした城下町
山内一豊は諦めかけたその時、妻の千代は秘蔵の小判(へそくり)を差し出してその馬を購入します。💰💰💰
織田信長が馬揃え(軍事パレードみたいなもの)を行った際、一豊の名馬が目に止まり、一豊の普段からの心がけが褒められ、信長から一目置かれる存在になりました。🐎🐎
あの馬は良い馬じゃな。
普段から軍事にここ抜かりがないのは良い心がけじゃぞ。
名を難と申す。
1570年姉川の戦いで初陣(ういじん:初戦のこと)を果たした山内一豊は、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となります。🐒
大手門
1577年の中国征伐の際、播磨の陣で山内一豊の指揮を見た秀吉は、若い武将たちに向かってこう言います。🗣
山内が人数を使ふをいずれも見置けよ。 見かけにたがひたる男、これこそ。
訳:山内一豊が部下に指示するところを見ておけ。これこそ人は見かけによらぬと言うものだ。と称しています。🫣
天守閣
その後、豊臣秀吉は天下統一を果たすと、山内一豊をそれまでの近江の2万石から遠州掛川の5万石へ移転させます。
これは、江戸にいる徳川家康の監視役としての配置換えであり、秀吉の一豊への信頼が伺えます。🚔🚓
家康が不穏な動きをしたら、すぐに知らせるのじゃぞ。
しかし、豊臣秀吉が60歳を過ぎた頃、山内一豊は徐々に徳川家康に近づきます。
「豊臣秀吉が亡くなれば、これからは徳川の世かもしれぬ」と思ったのでしょう。😵💫
東海道を行き来する家康の一行を歓迎し旅の疲れを癒すなど、次第に家康の心証を良くするような動きを見せます。🕺🏽
1600年6月に徳川家康が上杉討伐軍を率いて東海道を下った際、手厚いおもてなしを行ったとされてます。🍻
一豊の「お・も・な・し」は格別じゃぞ。
山内一豊は、後を追うよう家康の上杉討伐軍に加わります。🐎
日本最古の木造再建築城
1600年7月、上杉討伐に向かっていた徳川家康が小山に入った時、石田三成が挙兵した連絡を受けます。📞
ここ小山で評定(緊急会議)が行われ、このまま上杉を攻めるか、引き戻して石田三成を討つかを決めます。これが世に言う小山評定です。🕍💼
家康側について、一緒に石田三成をやっちゃおーよ。
多くの上杉討伐軍が大阪城に妻子を残しており、人質にとられる可能性がありました。それもあって、石田三成につくか、徳川家康につくか決められずいました。🤷🏻
その中、山内一豊が口を開きます。😦
我が居城掛川城を内府殿(家康殿)に明け渡し、人質も差出、みずからは先陣して戦わん
この言葉に押されるように、この場にいた各武将は「われも、われも」と徳川家康に忠誠を誓うのでした。🙋🏻♀️🙋🏻🙋🏻♂️
山内一豊は、この小山評定にて合戦(関ヶ原の戦い)に先じて一番の手柄を立てました。🐱
1600年9月15日の関ヶ原の戦いでは、山内一豊は池田輝政らと共に17,000の軍勢で徳川軍として戦いましたが、目立った手柄はあげられませんでした。🙈
しかし、小山評定での各武将への説得が高く評価され土佐一国20万石が与えられました。👍
勝ったぞぉー。小山評定で勝敗が決まったようなものじゃ。
まじ、助かったよ。
日本一
こうして山内一豊は土佐藩主となりますが、その4,5年後の1605年に自ら築いた高知城にて病のため死去。享年60歳でした。😇
子孫は、代々土佐藩主となり明治維新を迎えることになります。明治維新を迎えるに当たり土佐藩出身の坂本龍馬が活躍したのは、皆さんご存知のことですが、坂本竜馬の話はまた今度にします。😌
続日本100名城スタンプ
続日本100名城スタンプは、天守閣1Fにあります。
開館時間:9:00~17:00(3~5月、9~10月)、8:00~18:00(6~8月)、9:00~16:30(9:00~16:30)
料金:大人320円、小人150円
通常(3~5月、9~10月) | 9:00~17:00 |
---|---|
夏季(6~8月) | 8:00~18:00 |
冬季(11~2月) | 9:00~16:30 |
いろいろな角度からの郡上八幡城
郡上八幡城は新緑の景色も良いですが、秋には下から見るとまるで天守閣が燃えているように見えるくらい紅葉が綺麗ということ天守炎上と呼ばれてます。🔥
そんな郡上八幡城をいろいろな角度から写してみました。📸
感想
郡上八幡城は4層5階の城で大垣城をモデルに作られたと言われてます。💃
なんと言っても、木造天守閣の雰囲気がすごく素敵なお城で、外観も良いですが天守閣内も見所一杯でした。🏯