基本情報
- 城名:赤木城
- 城地種類:平山城
- 主な城主:藤堂高虎
- 住所:三重県熊野市
- 交通:JR紀勢本線「熊野市」駅から車で約40分
- 入場料:無料
マップ
北山一揆
赤木城は藤堂高虎(とうどうたかとら)が北山一揆(きたやまいっき)と呼ばれる騒動を鎮圧する為に築城した城と言われています。🏯
藤堂高虎については、津城のお城紹介にて詳細に記載してます。良かったらこちらも見て下さい。🤗
北山一揆とは、1586年と1614年に二度起きた一揆のことをいい、1586年に起きた一揆はこの熊野を地盤とする侍を中心に太閤検地に反発した一揆だったと言われています。🐒
太閤検地とは、豊臣秀吉が日本全土で田畑を測量して、面積・境界・石高(こくだか)等を検査した行為のことを指し、これにより不透明だった年貢の納入経路が明確になり、無駄なく徴税できるようになりました。💸💰
1586年に一揆討伐に向かったのは羽柴秀長(豊臣秀吉の弟)で、羽柴方の犠牲も多く出ましたが約1か月で制圧しました。しかし、処罰が中途半端にとどまり、その後も一揆衆の反発が度々起き、1588年に一揆鎮圧の拠点として、藤堂高虎がこの赤木城を築城しました。🏯⛰️
二度目の一揆は、1614年に起きました。一度目と同様この熊野を地盤とする侍、山伏が中心に慶長検地に反発した一揆と言われてます。🌾
慶長検地とは、浅野幸長(あさのよしなが)が1600年に紀伊の国に入国し行った検地で、検地が厳しくなり農民が負担する納税が太閤検地と比べ増加しました。🆙
特に北山村では5倍近く増えたことから不満が高まり一揆となりました。😤
1614年12月、新宮の領主浅野氏が大阪冬の陣の為に出陣しました。手薄となったのを好機とみた一揆衆は3000人余りを集結し新宮城を攻め落とそうとしました。⚔️
しかし、沿岸部の領民が新宮の浅野勢に味方した為、一揆衆は撤退することになりました。
その後、大阪に出陣していた浅野忠吉(あさのただよし)が戻り一揆を制圧しました。その間わずか20日足らずと言われています。😭
領民も自分の生活の為に仕方なく起こした一揆。力での制圧には何か悲しいものがあります。
感想
今回は、赤木城跡を北山一揆と絡めてご紹介しました。🫡いかがでしたでしょうか。
赤木城は、電車・バスの交通も不便ですが、近くには丸山千枚田や景色の良い場所があり、是非訪れてほしい場所です。🌾🌾🌾
できれば天気が良い日に訪れてみて下さい。☀️