基本情報
- 城名:美濃金山城
- 別名:烏峰城(うほうじょう)
- 城地種類:山城
- 主な城主:森可成
- 住所:岐阜県可児市
- 交通:名古屋鉄道広見線「明智」からバスで15分
マップ
美濃金山城
美濃金山城は、1537年斎藤大納言(妙春)によって築城された城で、当時は烏峰城(うほうじょう)と呼ばれてました。🦅1565年に織田信長の家臣森可成が城主となった際に、金山城と名前を変えました。⛰
のちに信長に仕えた蘭丸が城主になりましたが、そのわずか2ヶ月後本能寺の変が置き、信長と運命を共にしました。🔥🏠🔥
今回は、この美濃金山城を居城とした、森家について簡単にご説明します。😌
うわぁー地味ぃーーー。
地味と思うかもしれませんが、森家には森蘭丸の他にも、📺ドラマ「信長協奏曲」で個性のある役柄で森下能幸(もりしたよしゆき)さんが演じた森可成(もりよしなり)や、その森可成の息子で強者だった森長可(もりながよし)がおり、有能な武将が沢山いました。😉
もりっち(森可成)は、清洲城制圧など初期から、わしに仕えてくれた信頼できる武将じゃ。
森家の家系図はこのようになってます。🙂
森可成は信長のお気に入りの家臣の一人です。😚ドラマ「信長協奏曲」の森可成とは少々イメージが異なり槍の名手でかなりの強者だったと言われてます。🪛
1570年姉川の戦いで織田軍に敗れた朝倉義景・浅井長政連合軍(28,000)が、森可成が守る宇佐美山城に攻め入ります。これを志賀の陣と言います。🔥🏯🔥
宇佐美山城の兵は2,000。森可成は浅井・朝倉軍の猛攻を必死に防ぎますが、数で勝る浅井・朝倉軍の前に討ち死にします。😭
28,000 vs 2,000って、そっりゃー浅井長政と朝倉義景の連合軍が勝つよねぇー
しかし、主の森可成の討ち死にの知らせを聞いた宇佐美山城兵は、弔い合戦だと奮起し、28,000の大軍を僅か2,000の兵で守り抜きました。😤
えっ、守り抜いたの。。すごい。
織田信長は、森可成の討ち死にを知り、急ぎ浅井・朝倉軍の討伐に向けて進軍します。
浅井・朝倉軍は、信長が来ると否や、近くの比叡山に逃げ込みます。😨 ⛰
織田信長は、比叡山の僧侶に対して、浅井・朝倉の引き渡しを命じますが、比叡山はこれに従いません。🙅♂️
結局、両軍とも戦いの長期化を避け、将軍足利義昭が仲介役に入り一時休戦することになりました。💁🍵
おのれぇー。浅井長政・朝倉義景も許せんが、比叡山の僧侶も許せん。
比叡山の僧侶は、この浅井長政・朝倉義景を隠まったことにより、翌年9月に織田信長に比叡山を焼き討ちされます。🔥🌋🔥
次にご紹介するのは森蘭丸です。🐶
森蘭丸は幼くして信長に仕え、小姓として常に織田信長と行動を共にしておりました。🦉🐥
小姓というと、今でいう秘書的な役割で、常に身近にいる為信頼がおける者しか務まりません。そんなことから織田信長が蘭丸をすごく信頼していたとされています。🙆🏻
1582年に本能寺の変が起きた時、森蘭丸はわずか18歳であり、最後まで信長に仕えた末に2人の弟と一緒に亡くなりました。😭
森蘭丸とその弟を道連れにしてしまい、可成に合わせる顔がないぞ。
最後にご紹介するのは森長可です。森長可は、父森可成と同様に強者で「鬼武蔵」と称されてました。👹
志賀の陣で父森可成が討ち死にし、兄の可隆も初陣にて早くに討ち死にした為、13歳という若さで森長可が美濃金山城の城主となります。😦
森長可はその後、伊勢長島の一向一揆や、甲州(武田)征伐で活躍し武功をあげていきます。💪
本能寺の変で織田信長、森蘭丸を含む弟達(坊丸、力丸)が亡くなり、その後、小牧・長久手の戦いがおきます。⚔️森長可は羽柴秀吉側につき、池田恒興と共に秀吉の奇策(三河中入り)の武将として徳川家康と戦いますが、奇策が徳川軍に筒抜けで背後を討たれ戦死してしましいます。😱
三河中入りの策が失敗したじゃと、、長可、すまん。
長可め。わしに見方すれば死なずに済んだものの。
織田家を裏切った報いじゃ。
小牧・長久手の戦いの詳細は、ブログ犬山城にて記載しています。📜
よかったら合わせご覧ください。🤗
可児市観光交流館(続日本100名城スタンプ)
美濃金山城の北側に下山すると、可児市観光交流館があります。👯
開館時間:8:30~22:00 年末年始は休館
スタンプは入口に分かりやすく置いてます。
感想
美濃金山城は標高277mで、楽しみながら登れるので、軽い登山気分を味わうにはもってこいの山です。🌄
この日は天気もよく暑かったのですが、少し標高が上がっただけで涼むこともでき、景色もよく、おススメの山城の一つです。山⛰