日本200名城

城054.大阪城 ~言わずと知れた天下人(豊臣・徳川)の城~

基本情報

  • 城名:大阪城(おおさかじょう)
  • 別名:錦城(にしきじょう)、金城
  • 城地種類:平城
  • 築城者:豊臣秀吉、徳川幕府
  • 住所:大阪府大阪市
  • 交通:地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅 徒歩15分

マップ

大坂城

大坂城ホールから見る大坂城
極楽橋と大坂城
茶葉丸

「おおさかじょう」って漢字、「大阪城」と「大坂城」のどっちが正しいの?

当時は「大坂城」と書かれていましたが、大坂の坂の字は「土」に「反」と書き「つちにかえる」という意味になります。
この「つちにかえる」は死を連想できてしまう為、縁起が悪いとされ、字を改め「阪」の字を明治以降使うようになったと言われています。

馬場町駅から出て見える六番櫓と水堀
大坂城
豊臣秀吉像
豊国神社

大坂の役(おおさかのえき)

大坂城と言ったら「大坂夏の陣」と「大坂冬の陣」。
栄華を誇った豊臣氏を徳川家康が2度に渡り攻撃する戦いで、この2回の合戦を合わせて「大坂の役(おおさかのえき)」と言います。
大坂の役は1614年(慶長19年)の冬(11月~12月)に「大坂冬の陣」、翌年の1615年(元和元年)の夏(4月~5月)に「大坂夏の陣」が起き、2度大坂城を包囲されました。

多聞櫓(重要文化財)
桜門(重要文化財)

大坂冬の陣(1614年11月~12月)

大坂冬の陣は、1614年に再建した「方広寺(ほうこうじ)」の鐘に刻まれた8つ文字がきっかけで戦いに発展しました。
方広寺に刻まれた文字は「国家安泰」「君臣豊楽」。
この文字は徳川家康の家康の文字を2つに割り、豊臣を君主とする意味と解釈できる為、徳川家康が豊臣氏に追及し合戦までに発展しました。

桜門にある蛸石高さ5.5m、横幅11.7m
千貫櫓(重要文化財)
茶馬原

たったの8文字で戦いになったの?

大坂冬の陣の3年前(1611年)に二条城で、徳川家康は豊臣秀頼と会見し、その時家康は「秀頼の存在」を脅威と感じました。
家康自身がこの世から亡くなる前に、脅威を排除しておきたい思いから秀頼を攻めるキッカケを探していたと言われております。

山里口出升形
大手前広場から見る大手門

大坂冬の陣は、木津川口の砦で徳川軍と豊臣軍が衝突し戦いが始まりました。
豊臣軍は劣勢が続き大坂城に撤収、徳川家康が大坂城を取り囲む籠城戦となりました。
大坂城は北側、東側、西側の三方を自然の川が堀の役割を果たし、唯一地続きであった南側に空堀と出城(真田丸)を築いた難攻不落の城でした。
この「真田丸の戦い」は真田幸村が徳川軍に大きなダメージを与えました。

心眼寺(真田丸跡地)
真田丸跡地

徳川家康は大砲を準備し、12月16日に大坂城本丸へ向けて一斉砲撃を開始。
この砲撃で淀殿の侍女の8名全員が亡くなり徳川軍との和議に応じることになりました。

茶臼山(冬の陣、徳川家康本陣)
号砲

大坂夏の陣(1615年4月~5月)

「大坂冬の陣」で講和により豊臣氏と徳川氏は一旦決着した形となりましたが、講和条件として2つ課されました。
1つ目は「大坂城の堀を埋める」こと。この条件を呑み大坂城は1か月ほどかけて堀が埋められ裸同然の城となりました。
2つ目は「豊臣秀頼の大阪城から退去と淀殿の人質」。この条件に秀頼は断固として拒否した為、大坂夏の陣で再び決戦することになりました。

青屋門
金の鯱等

堀を埋められたこともあり、「冬の陣」とは違い徳川軍が圧倒的優勢で豊臣軍は玉砕覚悟の戦いとなりました。
この戦いで、豊臣秀頼と淀殿は大坂城で自害し豊臣家は滅亡することになりました。

金のしゃちほこ
金の虎

旧第四師団司令部庁舎(三ライザ大坂城)

昭和6年に建設した歴史ある洋館。平成29年に「三ライザ大坂城」としてリニューアルし、中にはお土産屋さんやコーヒーcafeやレストランが入ってます。

日本100名城スタンプ

日本100名城スタンプは天守内1Fのインフォメーションに「日本100名城スタンプ」を聞くと出してくれます。観光客が多いいとインフォメーション前に台を設置し常時出ています。

お土産コーナー

感想

大坂城は大阪観光のメインでもあって、休日に行くと人が一杯。天守内の豊臣秀吉のの一生が見れる「からくり太閤記」をゆっくり見たい方は、平日朝9:00に行くことをおススメします。

落ち葉で大坂城の文字

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